本当にあったリアルな怖い話・恐怖の事件 ~現代の怪談~

なんだかんだで生きている人間が一番怖い・現代の怪談ともいえる本当にあった怖い話や恐怖の未解決事件です。

妻を寝取られた怨恨から発生した恐怖の殺人事件

大阪の伝統芸能である、かわち音頭のスタンダードナンバーにして、

大衆演劇の人気演目にもなった「河内十人斬り」

これは、1893年(明治26年)5月、

大阪府南部で起きた残虐な大量殺人事件が基になっている。


事件の現場となったのは河内の国、現在の大阪府南河内郡。
この村に、きど熊太郎(事件当時36歳)という男が住んでいた。

熊太郎は「飲む打つ買う」を地で行く男で、妻子がありながら、森本ぬい(同19歳)という女性と内縁関係にあった。


1892年(明治25年)11月、熊太郎は博打仲間である松永とらきち(同23歳)を家に呼び、ぬいと3人で夜更けまで酒を飲んだ。

虎吉はそのまま熊太郎の家に泊まり、酔った勢いでぬいと肉体関係を持つ。

激怒した熊太郎は別れ話を切り出したが、ぬいの母とらに

「おまえとぬいが一緒になるときに自分に毎月仕送りをする約束だったのに、全然仕送りをもらっていない。別れるなら払わなかった分を全部払ってから別れろ」

となじられる。

とはいえ、定職を持たない博打打ちの熊太郎に金の工面ができるはずもなく、そこで以前、金回りの良かった頃に虎吉の兄・熊次郎に貸していた23円50銭(現在の貨幣価値で約47万円)の返済を迫る。

ところが、熊次郎は記憶にないと言い張ったうえ、子分に命じて熊太郎に殴る蹴るの暴行を働いた。

松永一家に女を盗られた挙句、借金まで踏み倒されて半殺しにされた熊太郎の怒りは頂点に達し、舎弟の谷やごろうに焚きつけられたこともあり犯行を決意するに至る。
 やごろうの家で養生しながら、「捨て身の覚悟」の証しとして自分の墓を用意したり、京都・奈良・大阪で日本刀や仕込み杖、猟銃を買い揃えるなど復讐の準備をすること半年。

殺戮は1893年5月25日の深夜に決行される。
嵐のような暴風雨が吹き荒れるなか、熊太郎と弥五郎は松永家の主、でんじろう(同
50歳)宅前でズドンと砲声を鳴らすと戸口を激しく叩いた。
出てきた、でんじろうは斬りつけられたものの、深手を負ったまま家の後ろの竹藪を潜って逃走。

熊太郎らは家の中にいた妻たけ(同54歳)、三男のさごろう(同20歳)、三女すゑ(同
13 歳)を惨殺し、家に火を放つ。続いて、長男である熊次郎宅を襲い、慌てて家の近くの道路を越え逃げる熊次郎を麦畑まで追いかけズタズタに刺殺。

家にいた熊次郎の妻りゑ(同26歳)、長子の久太郎(同5歳)、幸太郎(同3歳)、赤ん坊のはるえがむごたらしく斬ざん殺さつされた。
 

熊太郎と弥五郎は最後に、ぬいの家を訪れ、まずは母とらの背中を銃で撃ち殺害。

このとき、ぬいは松永傳次郎宅が燃えていることを聞きつけ庭先に出ていたが、2人に見つかり切りつけられたうえ、最終的に納屋で頭を撃ち抜かれ死亡する。

熊太郎の彼女に対する恨みは激しく、殺害後、ぬいの内蔵を引き出し、さらに顔の皮を剥いだという。家には、ぬいの妹うの(同15歳)居合わせていたが、逃げなかったらおまえも殺すぞと言われ、その足で警察に通報。熊太郎らは金剛山へ逃げ隠れた。

ちなみに、ぬいと密通し、熊太郎の最重要ターゲットだった松永虎吉はこの日、宇治へ製茶の仕事に出かけており難を逃れている。
 

犯行翌日の5月26日、とんだばやし警察署から警部・巡査、大阪地方裁判所から判事・検事、大阪府警部長が水分村に到着。

当初、犯人は複数であること、そのうち1人が城戸熊太郎であること程度しか見当がついていなかったが、目撃者の証言などから谷弥五郎も犯行に加担していることがわかり、2人が逃亡したと思われる金剛山の捜索に着手。
28日には警察署に非常招集を発令し、総勢147人が現地に集結し、探索エリアを16区に分け、それぞれに指揮官をおき犯人の行方を追った。
 

事件は村の内外に瞬く間に知れ渡り、誰が言いふらしたか、熊太郎は村中を焼き払って焦土にして一人残らず殺す、と噂が立ち村中は恐れおののいた。

住民は家業を休んで昼間に寝て、夜は竹槍、すき、くわなどを持って村内を巡回。中には、老人や子供を他村の親戚に預ける者もいた。
 

一方、犯人の2人は食料を強奪しながら逃亡を続けていた。5月26日夜、二河原辺にいる親戚宅で粥かゆを食べ、28日の夕方には金剛山中に現れた。

2人はそこに居たきこりの男性に銃口を向けて逃げねば殺すと威嚇。

きこりが逃げて出張所に届け出たことで、村10人が竹槍を持って捜索したが見つからなかった。

同日19時には林業を営む男性2人が寝泊まりしている山小屋へ。

このとき、熊太郎は普通の着物に羽織を着て短刀と村田銃を携帯、弥五郎は普段着の上に法被を着て仕込銃と短銃を携えていたそうだ。
 

熊太郎は男性2人に、警察が来たかどうかを尋ねた。実際、警察は前日の16時頃に小屋を訪れていたが、2人がこの事実を隠したため、熊太郎らはここで一泊すると言い、男性らには我々が去るまで便所にも行くなと命令した。

その夜、熊太郎は一睡もせず2人に語ったそうだ。

警察は我々を発狂人のように云っているようだが、おかしいことだ。まだ恨みのある者が4、5人いる。
旧暦9月ごろまで逃げてその間に恨みを晴らして自首するか自殺する覚悟、人の手にかからぬつもりだ。

熊太郎は翌朝4時頃、小屋を後にした。事件から7日目の5月31日、青木谷の地蔵堂近くを見張っていた巡査が、熊太郎・弥五郎が通りかかったのを見つけ取り押さえようとした。

対し、熊太郎らは2発発砲して逃走、水分の難所に身を潜める。

警察はさらに捜索隊を増強し2人の行方を追ったが、彼らの足取りは掴めなかった。
村の内外で恐怖が拡大するなか、熊太郎の親は自害しようとも考えたが、熊太郎の異母弟がまだ17歳でその難儀を思うと死ぬこともできない。

そこで、熊太郎が売り残した田地いったんあまりを松永傳次郎に送って謝罪。また、森本とら親子の仏事料として所有していた藪・畑地・山林を遺族に与え、さらに犠牲者の
霊魂を慰め、熊太郎の懺悔を祈るために四国88ヶ所西国33ヶ所の霊場を巡礼する覚悟であると涙ながらに語った。
 6月3日と4日、熊太郎の親族5人が総出で金剛山に入り捜索したものの成果はゼロ。6日になって大阪から165人の警官が送り込まれ、1隊3人、全部で50余隊が改めて捜索に乗り出したところ、7日15時頃、なんば 山さんの杉の木に足をかけ仰向けに死んでいる熊太郎が発見された。そのすぐ左側に弥五郎の遺体。
状況から察するに、熊太郎が弥五郎を背後から銃殺し、その後銃で自身の胸を撃って自殺したものと推察された。惨劇から2週間。

事件は犯人の死によりようやく解決をみた。