本当にあったリアルな怖い話・恐怖の事件 ~現代の怪談~

なんだかんだで生きている人間が一番怖い・現代の怪談ともいえる本当にあった怖い話や恐怖の未解決事件です。

浮気して不倫しておいて嫉妬して殺人事件を起こす男の勝手な恐怖の事件

大阪市西区堀江。多くのアパレルショップやカフェが立ち並ぶ大阪きってのおしゃれタウンだが、かつてここに遊ゆう郭かくがあり、その花街を舞台に日本犯罪史上に名を刻む残忍な大量殺人事件が発生していたことはあまり知られていない。
 

時は1905年(明治38年)。日本は日露戦争の真っ只中で同年5月27日、日本の連合艦隊がロシアのバルティック艦隊を撃破し、国内が勝利の余韻に酔いしれていた。事件はその1ヶ月後の6月21日未明に起きる。

大阪・北堀江にある貸座敷(芸妓や遊女を呼んで飲食させる店)の「やまうめろう」で、当主である中川萬次郎(当時52歳)が、妻アイ(同27歳)の家族や下女たち6人を日本刀で切つけ殺傷したのだ。

被害者はアイの母の、ざこたにコマ(同54歳)、弟の安次郎(同20歳)と妹スミ(同14
歳)、女中の中尾キヌ(同16歳)、抱えていた芸妓の梅吉こと杉本ヨネ(同20歳)と妻吉きちこと河内ヨネ(同18歳)は左腕を切り落とされる重傷を負いながらもなんとか一命は取り留めたが、他の5人は死亡という大惨事だった。

当時の新聞報道によれば、1階の奥座敷では布団の上でコマ、スミ、キヌの3人がうつ伏せで倒れ、2階の10畳間では首をばっさり切られ皮一枚で繋がっている安次郎の遺体、その隣には妻吉の左腕が転がり、さらに3畳の間には布団をかぶったまま頸部を切りつけられ辺り一面血の海と化したなかに梅吉の遺体という、実におぞましい惨状だったそうだ。 な

ぜ、このような残酷な事件が起きたのか。

原因は萬次郎の極端に嫉妬深い性格にあるとされる。彼はおわりのくに(愛知県)の生まれで、実家は尾張徳川家の家来筋。帆船の船頭を生業としていた。そんな萬次郎が仕事で大阪に入港するたび足繁く宿泊していたのがやまうめろうである。
 

やまうめろうは江戸時代末期に中川タミという女性が開業した老舗の貸座敷だ。容貌に優れ口が達者な萬次郎は店に出入りするうちタミの養女のやえと男女の関係となり、やがて中川家の婿養子に。

1878年(明治20年)にタミが亡くなると店の実質的な支配権は萬次郎が掌握した。平穏な暮らしが数ヶ月続いた後、萬次郎は生来の女好きな顔を露骨に表に出すようになる。

店の芸妓に次々と手を出した挙げ句、萬次郎を頼って名古屋から上阪した店の芸妓・おさくと愛人関係を築き、そのことで八重と喧嘩が絶えなくなると、おさくと北海道に駆け落ち。

数年後には彼女を捨て、1人で大阪に舞い戻った。

その間、八重は店の経営について知人の男性に相談しながら1人で切り盛りしていたが、帰阪した萬次郎は八重とその相談相手との仲を邪推し、八重に殴る蹴るの暴行を働いたうえ、裸同然で店から追い出しやまうめろうを乗っ取る。
 

その後、大阪市西区にあった松島遊廓で芸妓をしていたスエ(同39歳)と出会い、内縁の妻としてやまうめろうに迎え入れる。スエには当時一緒に暮らしていたアイという姪めいがおり、彼女もスエと共に店で生活するようになったのだが、萬次郎はこのアイを大層気に入り小萬という名で座敷に上げる。

やがて愛想が良く美貌の人気の芸妓となった二回りも下のアイに萬次郎は下心を抱き、しきりに彼女を口説く。

しかし、アイは頑なに萬次郎を拒否した。

受けいれれば叔母のスエを裏切ることになるからだ。

が、結局は萬次郎は自分の思い通りに事を運ぶ。1895年(明治28年)9月のある日、スエとアイを連れ有馬温泉に行き、スエが1人で湯に入っている間、アイを奥座敷に連れ込み強引に犯してしまうのだ。

彼女が18歳のときである。
 

その頃の日本は日清戦争で同年に結ばれた下関条約で台湾を手に入れ、一攫千金のチャンスを求め台湾に渡る者が数多くいた。萬次郎もその1人でアイに台湾行きを持ちかける。

叔母スエを裏切った良心のかしゃくに悩まされていたアイは、自分が傍からいなく
なれば少しはスエの気持ちが晴れるだろうと、この申し出を了承。

同年10月、2人は台湾に向かう。このとき、アイは台湾で一儲けできたら、京都で宿屋
を営んでいいとの約束を萬次郎に取り付けていた。
しかし、台湾滞在中に萬次郎の子供を身ごもってしまい、1897年(明治30年)に大阪へ戻ることに。
宿屋の話も立ち消えとなったが、戻っては八重に合わせると顔がないと、アイは別の部屋で娘のはつこを生み育てた。
 

そんな状況に萬次郎は八重の存在を邪魔に感じるようになり、根拠のない言いがかりをつける。養子として預かりやまうめろうで働いていた萬次郎の兄の子供、明治郎と八重が男女の関係にあると非難、1901年(明治34年)、やまうめろうから八重を追放し、アイを内縁の妻として呼び戻した。

が、アイが萬次郎に愛情を示すことはなく、むしろ嫌悪感さえ抱いていた。当然、萬次郎が面白く思うはずはなく、アイへの執着は以前よりエスカレートし、彼女が反抗しようものなら、そのたびに暴力をふるい、無理やり詫び状を書かせた。

さらにアイの行動に目を光らせ、やまうめろうの常連客や、共に働く明治郎との仲を疑い、時に容赦のない虐待を働く。
 

そんな生活が数年続いた1905年4月のある日、萬次郎と口論になった明治郎(当時
29歳)が外出したまま、やまうめろうに戻らず姿をくらました。さらに翌月5月5日にはアイも「自分は尼寺に入るので娘をくれぐれも頼む」との置き手紙を残し家を飛び出す。

対し萬次郎は2人が駆け落ちしたに違いないと邪推し、彼らの行方をくまなく捜索。警察にも届けを出すほど嫉妬に怒り狂っていた。

が、アイと明治郎の消息は杳ようとして知れない。アイの気を引くため、彼女の母コマと、弟の安次郎と妹のスミをやまうめろうに招き入れたものの、彼らも萬次郎を疎ましく思うばかり。

やがて女将がいなくなったやまうめろうは客足が遠のき、萬次郎は酒浸りの毎日を送る。そして考えるのだ。皆がグルになって2人を庇い自分をのけ者にしている。
かくなるうえは皆を殺害するよりほかはない。
 

6月19日夜、やまうめろうには萬次郎、コマ、安次郎、スミ、キヌ、妻吉、梅吉、アイの娘の8人がいた。梅雨時で連日の長雨に萬次郎は「気も鬱陶しくてたまらんから家内中で大散財を遣うでないか」と言い、近くの料理屋から西洋料理や日本料理を取り寄せ、一同に振る舞った。西洋料理は初めてという妻吉はフライとカツレツ、梅吉はライスカレーを注文したという。

しかし、飲み騒いでいる間も萬次郎は「こんな晩にアイが居たらさぞ面白かろうに」と愚痴をこぼし、梅吉や妻吉らにからかわれていたそうだ。
 宴会は午前3時頃にお開きとなり、一同がぐっすりと寝込んだ4時頃、萬次郎は行動に出る。タンスから刃渡り一尺八寸の日本刀を取り出し、まずは1階で寝ていたコマとスミを斬殺。

次に2階で寝ている安次郎の首を切り落とし、隣で寝ていた妻吉が驚き声をあげるや彼女の左腕を一刀で切り落とし、右腕も深く切り込む。

さらに「人殺し!」と絶叫する妻吉の口内に血刀を突き込み「よくも、わいの悪口をしゃべりおったな」と舌を切り裂き顎を削いた。
 怪しい物音を聞いて駆けつけた梅吉は萬次郎の異様な姿を見て「兄はん堪忍してぇ」と泣きながら後ずさったが、顔と背中を切られ絶命。

再び階下に降りた萬次郎は命乞いをするスミを容赦なく斬殺し、化粧室で寝ていたキヌには「オイ大変な用がある、起きろ起きろ」とコマの部屋へ引きずりこみ、後頭部を切りつけ殺害した。
その後、萬次郎は真新しい浴衣と袴に着替え、自殺を決意し刀で喉を突こうにも手が震え断念。
人力車に乗って大阪西署に出頭する。すでに夜は明け、朝6時頃になっていた。
 堀川監獄に収容された萬次郎は、一審でこさつざいとして無期(懲役)を下されるも、大阪控訴院では諜殺罪とみなされ死刑判決を受ける。その後、大審院に上告したものの棄却され刑が確定。執行は1907年(明治40年)2月1日。享年53だった。
 惨劇から生き残った妻吉は事件後、搬送先の病で院緊急手術を受けたものの両腕ともに切断となる。しかし、心までが壊れることなく退院した後も芸事に励み、双そう手しゅなき芸妓として寄席の高座に立ち、客の人気を呼ぶ。その後、旅芸人として全国を巡っていた際に、巡業先の仙台でカナリアがヒナに口移しで餌を運ぶ姿を見て口くち筆ふでを思いつき、独学で書画を始め、寄席の舞台から惜しまれながら引退。

1912年(明治45年)、日本書画家の山口そうへいと結婚し、同年に長男、1917年(大正6年)に長女を授かったものの、夫の不倫により1927年(昭和2年)に離婚し、以降、身体障害者の相談を始める。

子供を抱えて東京・渋谷でさらさえを描いて生計を立てた後、1931(昭和6年)に自叙伝『堀江物語』を出版、映画化されて全国的な大反響を得ると同時に、大阪のたかやすに庵を建て尼僧を志し、1933年に高野山金剛峯寺にてとくど 、名を「順教」と改める。

以来、仏道の毎日を送る傍ら、身障者の相談所「自在会」を設立、自分と同じ立場の身体障害者の自立を支援する福祉活動に励み1937年には来日した視覚と聴覚の重複障害者であるヘレン・ケラーと対談している。

心筋梗塞で死亡したのはヘレン・ケラーが亡くなったのと同じ年の1968年(昭和
43年)4月。
79年の波乱に満ちた人生だった。
 一方、萬次郎の最初の内縁の妻である八重は追い出された後、自殺を図るも未遂に終わり、その後、貸座敷を経営したが、この頃から精神を病み巷では「堀江の狂人」と呼ばれるようになった。萬次郎の事件を聞いても「ちっともさしつかえおまへん」と言い捨て煙草を吸っていたという。また二番目の妻スエは後に山口県徳山市で再婚。事件の直接の原因ともなったアイは事件後に高塚で井戸に落ち事故死している。